【考察】これまでのMCU作品に”アベンジャーズは存在していなかった”のでは?
4月26日に公開される『アベンジャーズ/エンドゲーム』
その最新予告が先日公開された。
遂にサノスとの最終決戦が始まる。
期待高まる内容だが、何度か見ているうちにふとこんな事を思った。
「もしかするとこれまでの作品にはアベンジャーズが登場していなかったのでは?」と。
なぜそのような考えに至ったのか書いていく。
アベンジャーズという作品を振り返ると見えてくる"アベンジャーズのいない世界"
『アベンジャーズ』の名が付く作品は『アベンジャーズ(2012)』、『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』、『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』の三作品公開されている。
『アベンジャーズ(2012)』ではアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソーが一度は見解の相違から争うも、地球に侵攻してくるロキとチタウリの軍団を止めるために手を組んだ。
アイアンマンとキャップは侵攻を阻止するため、ソーは弟ロキを止めるためだ。
彼らは利害が一致したから手を組んだ。
そうして彼らは地球を救いMCU内ではアベンジャーズというチームとして認識されるようになった。
観客である我々もこの時「アベンジャーズが生まれた」と感じただろう。
『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』では唯一地球に侵攻する大量の敵を宇宙空間で目撃したトニーがウルトロン計画を進め地球を防衛するシステムの構築を始めようとした。
だがそれは失敗し、誕生してしまったウルトロンは暴走し人類へ牙をむく。
劇中では「団結」「アベンジャーズ」の言葉が度々出てきた。だがこれはトニーの行動がなければ発生しなかったと言える事件だ。
アベンジャーズが結集しウルトロンを止めるために戦い始めるが、これは明らかにトニー・スタークの尻拭いだ。
チームとして心の底から団結している様子は見られない。
これが原因でアベンジャーズは瓦解を始める。
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そしてサノスが野望を果たすため動き出した『インフィニティ・ウォー』ではアベンジャーズらしさが皆無になった。
サノスがマインド・ストーンを入手するため大量の兵をワガンダに投入し、キャップやローディー、ワンダらが戦う。
宇宙まで敵を追いかけたトニーとピーター・パーカーはサノスと激突するが地球でキャップらが戦っていることは目撃していない。
地球と宇宙の両方に唯一接点を持っているのはソーだが、彼もまたトニーの戦いを目撃していないのだ。
彼らは互いが戦っていることを理解はしているが”姿を目撃していない”のだ。
ヒーローチームを描いた作品であれば最低でもアイアンマンことトニー、キャプテン・アメリカ、ソーのBIG3が揃う場面があっても良かったはずだし、両者が互いをはっきりと認識する台詞を盛り込むこともできただろう。
アベンジャーズを名乗っているのであればチームらしさをもっと押し出すこともできたはずだ。
しかし、それを描かなかった。
劇中では地球と宇宙を繋ぐ接点はあれども、彼らが絡むことはほぼない異様な状況になっている。
振り返ってみると『アベンジャーズ(2012)』は利害の一致、『エイジ・オブ・ウルトロン』ではトニー・スタークの尻拭いで戦うことになった。
アベンジャーズと名がついていても、彼らが心の底から団結したことは今までなかったのだろう。
利害の一致、尻拭い…。様々な理由で彼らは一つに纏まるしかない状況に追いやられているだけなのだ。
インフィニティ・ウォーに至ってはもはや個々で動いているようにすら見え、チームらしさはほぼ霧散しているし、主人公は悪のサノスになっている始末だ。
果たして彼らは本当にチームと呼べるのだろうか?
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アベンジャーズはドラゴンボールに似ている
アベンジャーズは個々のヒーローが結集したチームだ。
しかし、彼らは心の底から信頼しあい団結したことはあまりないように思える。
彼らの希薄なチーム感が何かに似ていると考えてみると、それは『ドラゴンボール』だった。
ドラゴンボールも孫悟空、ベジータ、ピッコロなどがフリーザ、セル、ブウなどの強敵と戦う。
しかし、彼らは仲間同士だが”チーム”と呼ばれると違和感はないだろうか。
ベジータは悟空をライバル視しているし、ピッコロが悟空と組んだのも野望を果たすためだ。
彼らは利害が一致したからこそ手を組んだに過ぎず、そこにチーム性はほとんどない。
仲間ではあるがチーム感が希薄と言う意味でアベンジャーズはドラゴンボールと似た存在かもしれない。
ドラゴンボールとちがい『アベンジャーズ』とのチーム名が冠されたタイトルでチームであるとの先入観を持たされているだけなのでは?
マーベルは”ステレオタイプ”に回帰する
近年のハリウッド映画は偏見に基づく作品作りを裂ける傾向にある。
人種、社会、性などあらゆる要素にはびこる偏見や差別意識を撤廃する動きがありMCUもそれに従属している。所謂ポリティカルコネクトレスだ。
『ブラックパンサー』も黒人に抱きがちな偏見を排除しアフリカの伝統を重んじた衣装や演出を行っており、『キャプテン・マーベル』も女性ヒーローにつきものだったセクシーさや勝気といった要素を排除している。
近年はポリコレな作品を作り、それが賞賛される流れにありMCUも明らかにそれを意識している。
そして、ヒーロー映画に抱きがちな偏見をも取り除いているのだ。
ヒーロー物は幼稚な作品と思う人も多いだろう。
「悪をブッ飛ばして終わり」という単純な作品を思い浮かべるかもしれない。
マーベルはこのようなヒーロー物に付きまとうステレオタイプを破壊するために、ヒーローはヒーロである以前に”人”であることを訴えかけてきた。
『X-MEN』や『サム・ライミ監督版スパイダーマン』、『ダークナイトトリロジー』などの影響は必至だろうが、マーベルはヒーロー映画を「正義が悪をブッ飛ばす」単純な物語にしなかった。
MCUの起源である『アイアンマン(第一作)』から振り返ろう。
トニーは開発した兵器で多くの人が不幸になっていると知り兵器産業から手を引く。そして、培った技術で人々を救うためにアイアンマンとなる。
第一作の時点で早くも苦悩する人間を描いている。
キャップは国を守るため、70年後の世界を守るために戦うが親友が目の前に現れた葛藤し、遂には仲間よりも友を選んでしまう。
ソーも弟を止めるため、自分が神に相応しい存在になるために奮闘する姿が描かれた。
他にもホークアイには家族おり、ハルクは自分の強大な力に悩んでいる。
彼らはヒーローかもしれない。しかし、悩み涙し時には暴走してしまう人であることを描いてきた。
どのキャラも一言では語りつくせない奥深さを見せている。
マーベルはヒーロー物のステレオタイプを避けるため徹底して「人」を描いてきたのだ。
チームであるアベンジャーズを描く時も同じだ。
チームと言えば統一されたユニフォームに身を包みメンバーが心を一つにして目標に突き進むものだと考えるだろう。
ヒーローチームであれば軋轢が起きても乗り越えて心を一つにして力を合わせ巨悪と戦う。
だがアベンジャーズにはそのような要素は無い。
前述のように、彼らは利害の一致でまとまっているに過ぎない。心の底から繋がっている様子は希薄なのだ。
それでも彼らがチームだと感じるのはタイトルや劇中で度々チームであることが言及されているせいだろう。
だったら「アベンジャーズはもう存在しているじゃないか」と思うだろう。
それでもなぜ「アベンジャーズはこれまで登場していなかった」と感じるのか。
その理由は”ステレオタイプ”ではなかったからだ。
コミックからの伝統で仕方がないが彼らは日本のヒーローチームのようにコスチュームに統一感はなく、心も纏まっていない。
彼らはどこか纏まりに欠けており、強大な力を持つ個人が集まっているだけにしか見えないのだ。
ヒーロー物のステレオタイプを避け続けた結果、チームを描く際にも大衆の偏見を刺激するようなチーム像は描かなかった。
力を合わせるが心は完全につながっていない。それどころか仲間を責め、解散状態にすら追い込む。
そんな危ういチームを描くことで、マーベルは彼らは結局人であり纏まることは難しいという事を伝えてきていた。
全てはステレオタイプを避けるためだ。
それなのに『エンドゲーム』の予告ではステレオタイプなヒーローチームが登場してしまった。
この予告から察するに彼らの心は「サノス」を打倒するため遂に一つになったことが伺える。
宇宙の生命が半分に消えたことを契機に彼らは一つになり統一のコスチュームに身を包んでしまう。
”世界よ、これがヒーローチームだ”と言わんばかりのステレオタイプなヒーローチームの姿がそこにはある。
マーベルはインフィニティ・サーガの最後で「ヒーローチームとはこうあるべきだ!」というステレオタイプを見せてきたのだ。
これはもはやエゴとも言える表現だ。
ヒーローとは夢と希望を背負う。どれだれ傷つき敗北しても一つになれば勝てるかもしれない。
ヒーローに対して人々はそんな願いを抱きがちだ。
予告ではまさにその光景があった。「彼らならきっと勝てる」そんな願望が映し出された。
最後の最後で遂に”真のアベンジャーズ”が結成されるのだ。
これまで避け続けてきたステレオタイプに最後の最後で”回帰”する。
マーベルは観客が何を求めているかはっきりと理解しており、絶妙なタイミングで投入してきた。その取捨選択の上手さには感服するしかない。
なぜマーベルが世界トップのスタジオとなり一流ブランドになれたのかがこの予告にはっきりと示されている。
”本当のアベンジャーズ”が遂に登場する。
エンドゲームから絶対に目が離せない。
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